想い、願い、夢を見て、拓く


takoma

「時間とお金があれば行ける時代なのだから。行ってきなさい。」

僕が10代の時にそう言ってくれたのは、他でもない、我が母でした。

 

 

想いを叶える種

決して裕福な家庭ではありませんでした。一方で貧乏というわけでもなく、一人っ子としての恩恵を全力で受け、それはそれは真っ直ぐに丁寧に育てて貰いました。

小さい頃から動物に囲まれる生活でした。犬や猫、亀やらハムスターまでいました。この頃、共に暮らしていたゴールデンレトリバーとダルメシアンからは、限りない愛と真っ直ぐに生きることの重要性を教えてもらいました。未だに信念が「笑顔と感謝」であるのは、彼らと生活した日々がそこにあったからだと思います。

「神童」と呼ばれて鼻高々に入った私立中学からは、学業の成績もボコボコにされ、楽しい思い出も辛い思い出も入り混じった個人的にはカオスのような学生生活でした。真っ直ぐだけでは駄目なんだと、何度も何度も思い知りました。今では大好きな人付き合いも当時、誰とも会話したくないと考えるほど落ち込んでいた時期が何回もありました。その度に自分を支えてくれたのは、我が家にいた犬であり、そしてこの頃から始めた乗馬でした。

馬は純粋で素晴らしい生き物でした。自分にとって唯一心を許せる存在なんじゃないか。真っ直ぐに乗らないと言うことを聞かない。真っ直ぐに乗っても、自分が幼ければナメられる。とても素敵なスポーツだと思いました。自分自身でいられる、勝負できる。そんな世界にのめり込みました。のめり込めばのめり込むほど、どんどんと世間から自分が離されていくことに気づきました。「もう自分は、あんまり普通が面白くない。」と気づくのに、そう時間はかかりませんでした。

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この頃から同時に放浪グセがついてしまいました。自分の足で行きたいところまで行きたい。そんな思いに駆られて、良くママチャリで旅をするようになりました。乗馬をするために、大阪から滋賀へ。また、どうしても四国に行ってみたくなって、姫路経由で小豆島を渡り高松まで。明石海峡が自転車で渡れないと知ったのは、旅に出た後でした。近畿一周してみたくなって、和歌山の最南端である串本まで来た時に「近畿って死ぬほど広い。諦めて、熊野古道通って奈良経由で帰ろう。」と中途半端な結果になった旅は、財布に入れた1万円だけで生活する。というどっかのテレビ番組みたいな企画でした。そうやって、自分の中の小さい限界を常に広げたいと思っていました。ただただ、自転車を漕いでいる中で湧き出てくる「くわーーーーっ!!!!死ぬかもーーー!!!生きてるーーーー!!!!!!!」って言う言葉を感じたくて旅に出てました。ただそれだけでした。

高校生の頃に、憧れだった北海道へ1ヶ月ほど丁稚奉公させて貰う機会を頂きました。「浦河」というサラブレッド街道の一つの町で、競走馬の産地で有名な牧場の一つで仕事を頂けたのです。夏の北海道ではトウキビ(とうもろこし)を食べて、美味しいじゃがバタを食べるんだろうな。と、ムツゴロウ王国や北の国からだけで得た甘い甘い知識を持って、意気揚々と牧童として仕事を開始しました。後にも先にも、これほど仕事が辛いと思ったことはありませんでした。体力は自分の限界をとうに超え、技術もままならない。若駒に蹴られ、牧場の先輩や上長にも怒鳴られる日々。「何やってんだ」と何度も思いました。朝の4時半〜夜の9時までみっちり働いて。ブラックだ何だとか、そういう問題じゃありませんでした。でも、馬が好きでしたから。そこに馬が居たし、馬が大好きな人達(もしくは、本当に馬でしか生きられない人達)が必死で仕事をしていたから、僕もやらざるをえませんでした。何度も何度も泣きながら。怒られながら。噛まれたり、蹴られたりしながら一ヶ月働き(耐え)ました。すると最後の日に封筒を一つ。中には非公式な5万円が入っていました。勿論断りましたが、「好きに使え」と言って牧場のおじさんは無理やり渡してくれました。帰りの電車で、これほど嬉しい給料があるかと。札幌の宿に着くまで、泣きじゃくりながら帰りました。時給換算すると、自動販売機で熱い缶コフィすら買えない金額であることに絶望しました。このまま、馬の道を歩むべきか否か。あのクソ生臭い経験があったから、自分の進路に対して真剣に考えることが出来ました。大好きな馬と志事をする。という僕の目標は一気に現実味を帯びてしまい、むしろ大いにヒヨってしまいました。「折角、入学した私立。大学に行くのも一つの手やで。」という声がどことなく聞こえており、そして僕は大学になんとなく進学しました。

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華の大学生活を満喫する受験組とは裏腹に、僕ら私立中高組は大いにその世界を斜めに見ていました。そのせいか、自分でもびっくりするほど大学デビューが遅れ、またこの時期に起きた事故も重なり、個人的に底辺の日々を過ごしていました。また再び、人に会いたくない。誰とも話したくない。という時間が来るとは思ってもいませんでした。人生とは不思議なものです。この時初めて、自分も、自分の家族も傷つけたいという謎の感情に襲われました。それくらい逃げたく。それくらいしんどい。それでも優しく、遠くから見守ってくれていた家族や知人には感謝でしかありません。本当にありがとう

ようやく立ち直るキッカケを与えてくれたのは、ふとしたことでした。大学の同級生のTくん(彼も内部生)が当時、英語のクラスで一緒だったのです。英語のクラスはA〜Zに振り分けられ、Aから頭がよくZにかけて悪くなるというわかりやすいクラス分けでした。その中でTくんと僕は、AAとABというクラスに属していました。A〜Zにも入れない、あぶれた、落ちこぼれたクラスがAAとABでした。そんなTくんが変なことを言っています。「むっちゃ勉強して絶対世界行くわ、俺」意味が分かりませんが、どうやら彼の目は、僕が知っている犬や馬の目と同じ目をしていました。真っ直ぐで、有言実行の為に目の炎が燃え盛っていました。単純な僕は焚き付けられ、結局Tくんと同じように英語を勉強して世界を目指すことにしました。世界に行って、広い大地で馬に乗りたい。まだ見ぬ世界を見てみたい。ただただ、そういった欲求でした。既にその頃には年齢が二十歳になろうとしていました。今考えると、遅い。遅すぎますが、それでも全速力でした。

個人的に頑張った英語の勉強も虚しく、僕は大学の留学プログラムからの選考に漏れ、彼は選考に通りました。カナダへ行くTくん、一人残され何もすることのない僕。バイトをして、お酒を飲んで、カラオケして心まぎらわそうとも、どうにもこのイライラの矛先と海外への欲望は捨てさることが出来ませんでした。そんな時、大学生の長い休みを利用して海外に旅行すれば良いじゃないか。という話を聞きました。本当に単純なのですが、「これで広い大地で馬に乗れる。まずは行ってみなきゃ。やらなきゃ。」と気づきました。旅立つ数週間前に思いつき、ほぼ初めての海外一人旅に出た僕は、自転車で駆けまくっていたあの頃の自分を取り戻しかけていました。

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数週間後、カナダ・バンクーバーへ降りたった僕はImmigrationで捕まりました。「Hello」しか言えなかったからです。勉強はしていましたが、どうしても相手が何を言っているのか全く理解できない。声を発することも出来ない。そんな英語のレベルでした。身ぐるみ剥がされ、行先であったエドモントンの牧場へ電話をかけられ、僕が怪しいやつではないと説明をしてもらいようやく開放されました。それが初めてのネイティブカントリーでした。

カナダの牧場の景色は素晴らしく、今まで自分が見て過ごしてきた人生や町並みは何だったのかと思うほどでした。特に流星群が来るというタイミングで、1分に1回のペースで流れ星が流れる空を見た時には素直に「生きてて良かった」と思いました。ところが、田舎暮らしの世間知らずの牧場長とソリが合わず、一ヶ月居る予定だった牧場生活を2週間で切り上げ、その場にいた同僚から聞いた「カナダにいるのにロッキーマウンテンに行かないなんて!」という言葉を信じて、気づいたら何も知らない街カルガリーに居ました。本当に何も知らない、今日の宿もない僕は、とりあえず見かけた留学センターの門を叩き、「すみません、どこか泊まりたいんですが」とその場に居る日本人に声をかけ始めました。運良く優しい留学中のAさんに話しかけられた僕は、そのまま彼女のホストファミリーの家にSneak Inし、リビングのソファで寝ることが出来ました。その後、彼女の知人ボーダーの家だったり、激安バックパッカーに泊まったりしながらカルガリーからジャスパーへ抜ける方法を模索している中で、人を笑顔で、太陽のようにInspireする喜びを大いに感じていきました。生きながら、これが生きることなんだ。と強く思いました。カルガリーからバンフまではバスでしたが、バンフからジャスパーまでヒッチハイクでカナダ人と共に旅行し、英語が話せないもどかしさと、一方でだからこそ何とかしてValueを出さなきゃという無茶苦茶感がとっても楽しくて。結局彼らにもピザを奢ってもらったりして…。

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この時の経験があったので、僕は「あらかた何でも出来るんじゃないか」という変な自信を持ってしまいました。限界を越え、死んでしまうかもしれない危ない橋だと言われる道をあえて進みたくなったり、「どうにかなんじゃないの」という無計画という計画を立てることに面白さしか感じなくなってしまいました。日本人が特別やりたがらないことで突き抜ける。周りが普通に生きれば生きるほど自分が立つというポジションでしか、自分の存在価値を見いだせなくなってしまいました。でも、あんまりズレちゃうといろいろ面倒なので抑えるところは抑えよう。という価値観も同時に醸成されていきました。それが正直な、今の僕です

冷静と情熱のあいだ。でしょうか。自分らしく、チャーミングに生きる。なのか。「ここだ」と思った時には全力でアクセルを踏み、「今じゃない」という時は波が引くのをただただじっと身を小さくして待つ。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う。人の心を震わせる、動かせる。誰にも尻尾を振り、永遠の人たらしである。そんなこと、もやもや、考えてます。

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世界は広いということを、知るだけで変えられる自分の考え方

きっと世界は面白い。もっと世界は面白い。ここから先、何があるのかよく分からない。だからこそ、生きてる気がする。それで良いんじゃないか、と。ならば、面白そうな道に自分をBetしようと。その中で大切なものを磨こう。と思ってます。

この国に来て、この国にいる人と話して、やはり彼らの中に根付いている「開拓精神」に強く惹かれています。とっても魅力的です。金も大切なんだけど、それだけじゃない。それ以外の人間らしさにも藻掻き苦しみ、何かを見つけようと必死である。その先には「共生」があることを僕は知っていて、「共生」は日本人が世界で最も得意としている分野でもあると、何処かで誇らしく思っています。だからこそまずは、開拓したい、面白く生きたい。そう思っています。

ただいまは単純に。Frontierを信じて、Frontierにワクワクしながら、生きてみたいと思います。10年越しで来たよ、来てやったよ。そんな気分です。

 

しもたくは今、アメリカにいます。